前提

・ラスボスはおおかれすくなかれ人々から畏怖されている。

・ラスボスは強大な力をもっていて、ゲーム開始時には封印されているか、すでに倒されている。

・強大な力とは、国1つ単位で滅ぼせるくらいから世界単位で滅ぼせるくらいの範囲

・過去にラスボスを倒した人間、精霊、神様などがいる。

・主人公には結びつきの強さが描かれることのあるなしはあれ、必ず道中共にする仲間がいる。

ラスボスがすでにこの世界にいる場合。

・ゲーム開始直後に「ラスボスが悪さするからなんとかしてくれ勇者」と王様(もしくはある程度地位の高いキャラクター)がメインクエストの目的を伝える。

・ラスボスの居場所は既にわかっているか、その居場所を探るアイテムの存在が知らされる。

・偶然ばったり「あ、ラスボス」ということはない。

・負けイベントとして、ラスボスの副官、崇拝者、手下などとの偶然ばったり戦闘はありえる。

ラスボスがこの世界にいない場合。

・必ずラスボスは封印から解かれる


・封印を解く方法、伝説のアイテム、などを探すようNPCから求められる

・ヒロインは大体封印、ラスボス、アイテムに関する重要な鍵になっている

・主人公達の活動が敵に丸々利用されて封印解除される


ラスボスいるいない共通

・プレイヤーはお使いレベルのミニクエストを多くの場合強制的にこなすことになり、こなすとフラグが立って事件が起こる。

・事件は伏線レベルのものからNPCが死ぬまでいろいろあるが、大体プレイヤーの事情が変わってすぐさま行動指針が決まる。

・プレイヤーは様々な動機で1つの街や村を拠点にするのではなく、世界中を転々と旅する。

・ラスボス復活の前触れ、として近隣のモンスターが凶暴化する、などの事柄が上記の事件のなかに含まれる。



としてから、ここから開始。

われながらひどい偏りのある雑記であるけども、今の頭ではこれくらいが限界。

として、これらの王道パターンからシナリオの展開をどれくらいハズしているか、付け足しているかで僕はRPGを評価している。

ラスボスの復活を防ぐ、という目的に対して、
主人公がいきなりパーティを裏切る、というパターンがなかなか新しいけど、それまでに主人公とパーティとのつながりを描いていないので、それほど親しくないヒトに裏切られてもへーほーふーんのレベル(バテンカイトス)

仲の良さ、各キャラの考え方を丁寧に描いているのはテイルズシリーズあたり。さすがキャラクターにメインフォーカスをあてているだけはある。

ドラクエ初期と勇者30のあたり

ラスボスがすでにいる、というのは大体初期のドラクエあたりのことをさして言っているのだけど、最近では勇者30がこのあたりの王道パターンのもはや「万人が知っている条件反射的なシナリオ」としてゲームデザインの中心にもってきてるあたりがあーなんか時代やなーみたいな。

適当に飾ったシナリオとか青臭いセリフに辟易する現代のゲーマーに対しては、もはやフラグの消化のための記号をひたすらにみせていくほうが、余計なものがなくて良いということである。

「プレイ時間が長い」

「レベル上げが面倒」

「シナリオをおうのがつらい」

などの最近のプレイヤーの大多数がもつ要望に、勇者30はこたえようとしている。

「ゆうしゃよ まおう を でんせつのけん で たおすのじゃ」

って物語の動機これだけでオッケーというのもなかなかすごいことだけど、案外いろいろやりたがってるRPGも実際これでしかない。


ゆうしゃ まおう なかま モンスター アイテム

くらいのキーワードでRPGを構成できない、わけがない、というかこれくらいで十分である、ということなのか。

退屈なロープレ、と洋RPGへの希望見出し

お使い、はMMOでも筆頭にあげられるめんどい項目で、楽しめるヒトにしか楽しめない最たるところ。

その上一本道RPGだと、お使いしないとゲームが進まないのでなおめんどい、という非常に毛だるいところがある。

僕のようにここを毛ダルイ、と感じる人にはオブリビオンディアブロライクのハック&スラッシュRPGが活路になる。


一本道が嫌なら自由度、という逃げ道は最初物凄く「ゲーム新時代きたぜ」みたいな喜びがあったし、一本道のシナリオの中に世界観へプレイヤーを没入魅了させるセンスが光る洋RPGストーリーテリングは、国産ロープレにはないもの。


RPGが完成した形がオブリビオンなのか、っていうともうほとんど頭の中ではYESだけど、それだとこれからRPGつくることってなんの意味があるの、って思えて怖いから思考停止する。

テイルズのキャラの立ち方とオブリビオンの完成度が融合するときなんて、多分こないのだろうし。

なんでラスボスがいるのよ、あたり

ラスボスがいないとRPGおわんね、だってラスボス倒すのがRPGの目的だから、としているRPGが多いのは、てっきりラスボス倒すまでの過程が楽しいからだと思っていたのに、違った。楽しくない。

最近うしおととらを読んで良かったのは、ラストまでの過程の中に全てがあって、泣いて喜んで感じ取れた何かがあったと思えたからであって、シナリオを書いている以上ゲームプレイの中に名作マンガ読むときくらいの感動は内包できるはずなのに、それができていない。

要するにバテンカイトスのシナリオがつまんね、と言いたいだけであったりする。閑話休題

ラスボスと主人公は相反する存在で、互いが互いの存在理由である、という記述を以前ゲームシナリオの本で読んだけど、主人公のキャラクターを最後の最後まで立たせるためのラスボスであるなら、その存在があたりまえのようにあるのはしょうがないとして、その存在がエンターテイメントになっていないゲームってどうなの。

別にラスボスいなくてゲームとして楽しいならいいじゃん。ラスボスのいないRPGでも楽しめるならいいじゃん、と考えるとアトリエとかトルネコみたいなものが生まれるのだろうか云々。

アトラクションの最後の楽しみとしてラスボスがいるのなら、ちゃんとそれに即した設定やシナリオを用意して場を盛り上げないと、「紅白の小林幸子みたいなかっこうしたすごい敵」との単純戦闘で何十時間も費やしたゲームが終わっちゃう、という悲しみに包まれる。