Like a Blue bird

解釈に困る思考、理解できるはずがない。
それゆえに自由、それゆえに個性だと思っていた。
それが一番かっこいいものだと、そう思っていた。


他人を理解りたいと思いながら、自分は理解されない文章を書いている。
理解されない言葉を発する。
今更ながら、なにやら不自然な気がする。

そうこうしているうちに他人なんてわからないってことがわかって、じゃ人の意見を聞くだけ聞いて理解った気になっていた自分はとんだ

マヌケだなーとも、別に思わないけども。


人の意見を聞くことに、意味なんてあんのかなって、ただそう思う。

人は変わるし、変える。
人生を達観した気になっているやつは死んでもいいなんて平気で口にするし、状況が変われば約束も平気で破る。
というか、約束があったことすら忘れてる。

覚えていたのに、破ってしまった俺はその上一つを行く馬鹿かもしれない。

本当にわからない。
これは言い訳じゃない。
言葉や、態度や、行動の、どれが誰に対しての地雷かなんてわかるはずがない。
わかろうとしていないだけかもしれない。

ただ、唯一言えるのは人と関わらなければ、地雷を踏む事も無いってこと。
要は、相手を傷付けずに済む。
でも、それは都合の良い言い訳で、ほんとはリスクから自分を遠ざけたいだけ。

もし、労わりの言葉さえも、相手を疲れさせるとしたら。
天井知らずの好意が、ただ相手の苦痛でしかないとしたら
意味なんてあんのかな?他人について考える事、自分の意志に従う事。

誰もわかるはずがない。
ただ「わかった」気になっているだけ。

知っている、わかっている、そういう言葉はその程度の意味しかないと、バカの壁に書いてたような、ないような。


他人を完全に理解する自信が無くなった。
これは良い傾向だ。
なぜなら、勘違いをする危険がなくなったってことだから。
でもきっとこれからもミスはする。
理解った気になってしまう。
その時どうするかは、とりあえず未来の自分に任せる。
それにしても、不可能系と進行形ってのは面白いアイデアだな・・・そりゃそうなんだけど、誰もやらない。
そういうのを普通にやってしまうのが、かっこいいと思える理由


なんでミクシィでこんなの書いてんだろ?って常に思っている。
便利な時代なんだろう、一昔前ではこんなことは墓まで持っていくことがフツーだった。
でも今は、どんなことでも人に公開できる時代。
自分の伝えたいことを伝えられる時代。
それなのに、飛び交う情報はいつもつまらないものばかり。

自分が退屈したくないから始めたんだった。
誰かのためなんて思ったことはない。
少なくとも、大学に入る以前は。

人が笑ってたら自分も楽しい、だから人を笑わせる。
その程度の動機だったんだ。

人はわからん。
だから俺が生きてる限り、これからも誰かの地雷を踏み続ける。
踏みすぎて歩けなくなったら、手で這い蹲って踏み続ける。
正解が出るまで踏み続ける。
失敗から何かを学ぶ。
成功は人を鈍くさせる。


これからも、失敗しまくって、捨てたくないものを捨てまくって、どんどん身を軽くして、いつかは自分の好きな人たちのように、自分の

好きだった人たちのように

            看る前に、飛べ

その言葉の意味を知る前に、病んで腐って飛べなくなった。
それでも人間は、変わって、生かされて、また飛びたくなった。

考え事をするのは、俺には向いてない。
今まで考えてきてそう思った。
考えるよりもまず行動ってくらいが、俺には丁度いい。


石橋を叩くその前に、権謀術数巡らす前に、馬鹿みたいに走って、阿呆みたいにミスって、そしたらいつのまにか、どれだけやってもダメだったことが、知らずの知らずのうちにできているような・・・


そんな予感が、今はしている。