伝えることが迷惑にしかならない
人に自分を伝える事が、そのまま自分の意見の押し付けになってしまう。
相手のことを考えるということが全くできておらず、自分の中で優先したいことを第一に考えてしまう。
そういうことを今までもずっとしてきて、それでは他人とはうまくやれないってことを一度は学んだはずなのに、ダメだった。
自分の意思をハッキリと持つことと、他人への気遣いを怠らないという姿勢を両立できなくて、他人と話したり、何かを働きかけたりすると、必ずといっていいほど相手を困らせてしまう。
俺が自分の主張を通すと他人に迷惑がかかる。
だからずっと黙ってきた。
言いたい事を言わず、やりたいことをやらず、他人に迷惑がかからない範囲で最低限自分を慰めて。
他人に迷惑がかかることなんて、やってはいけないのが当たり前。
けれども、どうしても伝えたいことや、どうしてもやりたいことを、無理を承知で話したい、やりたいって気持ちには、今までなったことがなくて。
それが根本的な間違いなのかもしれない。
人を大切に思うことや、何かに執拗なまでに拘るのが、物事をうまくいかせることができない最大の障害になっている。
じゃ、俺がやりたいことって何なんだろう。
俺にとってものづくりとは、ゲームというのは、自分が大切に思ったことや、自分の中でこれが面白いんだ!というこだわりを、メッセージ性のある映像や音楽、インタラクティビティによって伝えることだ。
他人の価値観やこだわりなんて、関係ない。
もちろん面白ければ認めるし、興味を示して話を聞きたいと思うけど、自分にとって面白くない、と感じるものは無価値だ。
俺は、俺が面白いと思ったゲームを作りたいと思った。
そんなゲームは極限的には俺の頭の中にしかなかった。
それを形にしたくて、組織を作った。
けれども、そもそもこの発想が間違いだったのかもしれない。
商品というものは、お客様の喜びのためにあるもの。
商品としてゲームを作り、販売することを生業にする以上、そこに自分のエゴなんて押し付けることはできない。
一度「自分」を好いてもらえたら、ファンとして一定の支持者は集まる。
けれども、商用ゲーム制作において第一に考えなければならないのは、自分のやりたいことをゲームに詰め込むことではなく、他人がそれをやって楽しめるかどうかだ。
クオリティへの追求や拘りとは、自分のエゴを押し通すということではなく、どうすれば他人が楽しめるか、喜んでくれるかといったことを知っている人々の言葉なのかもしれない。
少なくとも、俺のように自分のことだけを考えてはいないはず。
俺の理想とするゲームは、この世に生まれてはいけなかった。
俺の思想は他人から理解されなかった。
それは、俺に他人を理解しようという意思が欠けていたからだ。
自分の好きなことを形にする、という情報デザイン観は間違いなのかもしれない。
そこに他人への配慮がない限り。
独りよがりな人間性は、作品にこめてはいけないのだ。
人はずっと、そういうことを教えてくれようとしていた。
「相手の気持ち考えているのか?」
「自分が理解されたいよりもまず相手を理解しなきゃ」
教えてくれようとして、言葉をくれていたのに
俺は受け止めようともしなかった。
俺はつくづくバカだった。
これからは、他人のことを一生懸命考えよう。
わからないけど、他人のことは理解できないけど、できる限りのことをしよう。
自分はこの先、他人には一生かかっても理解されないだろう。
でももう、理解されなくたっていい
自分の中では大切で、どうしても他人に伝えたい事を他人に伝えて、それを受け取った相手にとってそれが迷惑でしかない、重荷でしかない。
そういうのはもうコリゴリだ。
だから、理解されなくっていい
それでも他人は理解したい。
わかってやりたい。
人から理解されないのは、この上なく苦しい。
自分にとって大切な人に理解されないことほど、生きててつらいことはない。
俺だけなのかな。
みんなは諦めているのか、別にどうとも思っていないのか。
俺だけの価値観であるなら、そんな社会に適応できない個性など、誰の眼にも見せるべきじゃない。
1人でも他人と関わったら、そこはもう社会だ。
そして、理想を他人に求めてはいけない。
頭ではわかっているつもりの常識を、俺の心はどうしてもよしとしなかった。
心と体の整合性がとれないのは、人を好きになったからだ。
自分にとっても、他人にとっても、恋愛感情というものは邪魔なものでしかないのかもしれない。
けれども俺はどうしても
それだけはドブに捨てたくなかった。