【私的】恋とゲームと死の話
深い話を他人としだしたのって、大学はいってからくらいだったかなぁ、とふと思う。
小中学校からの友達とは遊んでいる時間は長いのだけれど、人生の話とか、将来の話とかをした覚えはない。してたかもしれないけど。
友達と一緒にメタルギアソリッドの各シーンを再現したり、マジックザギャザリングのデッキ構築とか、エロ話とかそんなんばっかりしてたと思う。
リボルバーオセロット初登場時の口上は、クラスのうち4人くらいが丸々全部言えた。僕がみんなにソフトを貸して広めていた。
そういうバカで楽しい話はやってたけど、本当に深い話とかはほとんどしなかった。
彼らと一緒に飯を喰ったりした記憶も、大学にはいってしばらくしてからやし、ゆっくりと何かについて誰かと一緒に語るということを、当時の僕はしていなかったように思う。
だから、それまではずっと1人で考えていた。
そのせいかもしれないけれど、ずっと答えがでなかった。
もしくは、出るまでに非常に長い時間がかかっていた。
ただ、同じことを延々と考えていた事ははっきりと覚えている。
それが大体、恋愛とゲームと僕が死ぬことについてだったと思う。
まず、僕が恋愛について考えるとは、うまくいかない現実について考えるってこと。
ようは、僕は好きな子と付き合うことがちっともできなかったのだ。今でもできてないけど。
それで、どうしてうまくいかないのか、をずっと考えるんだけど、そんなことを考えているよりは、はやく次の相手を探せというのが、うまくヤっている他人のアドバイスだった。
でも、そういわれても全くそうできなくて、結局のところわからないことを延々と考え続ける思考のループに陥る。
まるで回転車を狂ったようにまわすハムスターみたいに、僕は同じ思考を延々と繰り返していた。
答えは車の運転と同じで、「ミスは忘れろ、次はミスるな」なのだけれど、ひたすら考えては後悔していた。そういうのが僕だ。
今もずっと後悔を引き摺って、他人の幸せを妬んだりするときもある。
ただ、最近はなぜかそういうものを素直に微笑ましく思えるときもある。この辺はおそらく人が僕を変えた。
で次のゲームについて考えるというのは、はやい話が現実逃避だ。
ゲームについて考えるというか、ゲームをやっている時間というほうが近い。
それで、通学の電車をまっているときなんかはゲームやれないので、頭の中でゲームをイメージして、シミュレーションしてた。
正直アホである。
それでも、前述の通り恋愛がうまくいかない僕にとっては、ゲームはかなり退屈な時間を削ってくれたように思う。
高校時代の僕は服も買わず、ケータイも変えず、ゲームばかり買っていた。ゲームばっかりやっていた。
ゲームをやっている時間だけが、つらい現実のことを考えないでいられる唯一の時間だった。
ただ、僕が一番楽しいと思えた「そばに友達がいて、一緒にプレイする」感覚は、地元から離れた私立の高校にいったりしたせいで、ほとんど失われていった。
1人でゴールデンアイをプレイするのは寂しい。
最後の死ぬことについては、これがまた恥ずかしい話なのだけれど、中学校くらいのときに延々と考えていたこと。
なぜそんなことを考えていたのかと言うと、当時ノストラダムスの大予言の年で、世界が滅ぶと言われていた。
丸々信じていたわけじゃなかったんだけど、もしほんとだったら・・・という杞憂も含めて、僕は自分が死ぬことについて真剣に考え始めていた。
お風呂場に入ると、いつも急激に恐くなって、死んだらどうしよう死んだらどうしよう、と考えが頭をめぐり、どうすることもできない、俺死ぬ、絶対に死ぬんだ、どうしよう、どうしよう、っと風呂にはいっている間はずっと落ち着かなかった。
そしてまた当時10人にまわさないと呪いで死ぬ、みたいなチェンメがはやったりもしていて、かなり僕は焦燥していた。ほんと今考えるとアホなんだけど。
ただ、それは阪神淡路大震災をほんのちょっぴり体験していたせいで、いつ自分が死ぬかわからない、という感覚はもうすでにあったということもある。
そして、地球最後の日の前夜、あっけないことに僕は
「死んだら終わり。だから死ぬなら死ぬでそのあとのことはどうでもいい」
みたいな妙な達観をしてぐっすりと寝てしまっていた。
もちろん、アンゴルモアは地球に降臨しなかったので、次の日朝僕は妙に得をした気分になったのを覚えている。
なんだか、ここまで書いて何がいいたかったのか忘れてしまったのだけど。
ただ、好きな人のこととか、ゲームのこととか、自分が死ぬことについて、ずっと考えてきているんだなーという。
ただ、最近は、死ぬことについてはあまり考えなくなった。
ゲームについては、恋がうまくいかないせいで、もっと悲観的な考え方をするようになってきていることもある。
でも、現実逃避のためにゲームをすることはあっても、現実逃避のためにゲームをつくることはできない、ということはわかった。
ゲームをつくることは、僕にとっては、現実と向き合うことにほかならないんだなって、回りの人間をみていればわかる。
僕の人生がこれからうまくいくためには、ゲームをすっぱり諦めるか、ゲームをきちんと作れるようになるかしかなくて、僕はなぜだか前者の選択肢を頑なに拒否している。作れないクセに!
僕の人生にもうゲームを作ることくらいしか価値がない、ってもっともっと強く思いたい。
ゲームは単なる現実逃避の道具じゃなくって、いろいろすんばらしいところがあるんだって、たくさんの人に伝えたい。
そういう単純な思いというか熱意に、ずっと埃をかぶらせているのが今ままでの俺で、埃を一度とってくれたのが今好きな人なのだ。
ただもう、その恋がうまくいくことはきっとないようなので、それならば・・・とゲームを作ろうとする。
そういう動機って不純だけれど、僕にはそれしかない。
映画監督、ミュージシャン、アーティストデザイナー・・・かぶれ。
心折れた人、夢破れた人の掃き溜めとしてのゲーム業界から、数々の名作がうまれていったゲーム黄金期。
そういった時代があったくらいなんだから、僕の動機というのはまだまだ弱いものだと思う。
そんな経験くらい誰だってしている。
だから、ほんとうに僕にしかない動機っていうものを探している。
どうしてゲームがすきなの?
どうしてゲームをつくりたいの?
どうしてゲームがつくら(れ)ないの!
そういってくれる人が、もう心の中にしかいないから。
僕はこれから何をするんですか?
僕はどうすれば僕を救えるんですか。
僕はどうすれば人に何かを与えられる人間になれるんですか・・・
そういうことを、向こう10年かんがえていくんだと思う。