面倒な棲み分け

なんていったらいいのか、こんな性分に生まれてしまった自分というものを考えると、なぜだかネガティブな気分になる。


要は、自分の他とは違う部分に対して、不安を感じたり劣等感を感じたりする弱気な心理と、俺は他人とは違うんだ的な優越感みたいなものを恐れ多くも感じていられる自信が有り余っているような心理との間で、自我が絶え間なく動いている状態。


要はって言って説明したほうが長いとわ。


一見ネガティブとポジティブな心境のせめぎ合いに思えるこの状態、なぜネガティブな気分になってしまうのか。


理由は簡単で、ポジティブな心理というものを保障してくれるのが、自分だけだからだ。


自分にとって都合の悪い現実を、さもチャンスであるかのように自意識の中で祭り上げる。


そしたらなぜか自分は人生を楽しんでいるんじゃないかって、充実したリアルライフを送れているのではないかと錯覚する。


そしてそれを友人にも広め、ある一定の理解を示す人間を自分の側に引き込もうとする。


正直迷惑な存在なのだ。
うっとおしい以外の何者でもない。


自分のやっていることが、間違いではないと、価値があることなのだと、他人に保障してもらわないと、生きていて痛い思いをする人間。


自分の都合の良いように生きていたい人間が、世の中で一番痛々しい。



同じ場所に2人人間がいれば、もうその人間関係は社会だという。
それならば、誰か1人と話しているだけでエゴの強い人間は社会悪だ。


人に苦痛を与えることを前提にしなければ、エゴは通せない。
エゴを通さなければ、自分にとって世の中は楽しい場所ではなくなる。
人に苦痛を与えることで、世の中を自分の都合の良いような場所にする。


随分とまぁ、ヤクザな仕事に思えてくるじゃないか。




情報系創造妄想操作系エンターテイメント




だから


ボタンの配置とか、画面のレイアウトとか、色使いとかでわかりやすさ、見やすさ、操作しやすさを考えることや


細やかな世界観の設定に始まり、登場人物一人一人の好きな食べ物に至るまで、0と1で構成される映像群像操作劇を演出することや


少しでも楽しんでもらえるよう、実際にそれに触る人間のことを考えることは


我々の義務だ。
しかも権利として常に手の内にある。


ただやらなかっただけ。


面倒だからしなかっただけ。


許されるかそんなもん。

エゴなんだぞ?
そのままだと苦痛でしかない。
そんなものをあえて、人様からお金を頂くものにまで磨き上げる。


商品と呼べるものにまで改良する。


改悪なんて許されない。


もともと悪いんだから。


こんなものに、自分は他人からの理解をゆだねた。


大丈夫か?


理解してくれるのか?


それらを通して自分を理解してもらうなんて、間接的にもほどがある。


ほどがあるのに、なぜだろう


過去の事例はこと勇ましく、自分の生き方を励ましてくれる。


モチベーションはいつも、過去の事例から。

今も、未来も、自分にとって大したものはくれない。

そもそも、自分が与えるものであるし。


哀しいかな、いつも良いことは過去の記憶の中にある。
美化したわけじゃない。


そのまま覚えてて、そのまま幸せだったんだから。


でもまたそのうち、さよならだ。



みんながいつも面白がる


ワタシが個性を殺す度



周りの人間は勝ち誇って、ワタシを冷やかした



さも自分達が正しいことをしているかのように



その自信は、どこから?



そんなこんなで悔しいから、まだ死ねない。




やりたいことが、山ほどあるんだわ。