表現は暴力という言葉

Steamにて残虐ゲームの販売をValveが一時拒否したニュースをみて、「表現は暴力」という以前Twitterで見かけた言葉が浮かんだ。

これはただ暴力的な表現という意味であるというより、表現した時点でそれは表現的な暴力と化す、というような意味で自分は捉えている。表現的ってなんやねん。


つまり、なんらかの作品やら、言動やらで人が何かを表現する時、それによって誰かに与える影響というものは、どれだけその誰かがスルースキルを持っていたとしてもゼロに軽減することはできず、それは暴力的なのではないかというような意味である。


よく暴力ゲームなどが世に出された時、その製作者は「このゲームをきっかけに(このテーマについて)考えてみて欲しい」などといった語句を並べる。


暴力という非道徳な要素を毛嫌いするのではなく、ゲームという非現実な媒体を通して体験し、その是非について考えることがゴールであるとでも言う体である。


自分は、ゲームというものは非現実であり、暴力や出血、ドラマチックな、映画的なPC, NPCの死といったものは、ゲームを彩るための演出に過ぎないと思っているので、さも映画を見るかのように、一過性の感動を覚えるに留まる。

ただ、結局の所そういった表現に触れることで、自身の感覚に変化は当然のように起こっていると思う。
つまり、そういった表現を敬遠したり、飽きたり、また求めたりというような動機の変化である。


表現を行った時点で、必ずその受け手になんらかの影響を与えるという時点で、大なり小なり、表現は暴力である、という考え方である。


ゲームに問われる倫理観とかいう話は結局のところ弁護士のメシの種にしかならず別にどうでもいいので、本来はそういう筋の話題だったのだろうが省く。